村田沙耶香さんの書評が好き。
新聞の書評を読むのが好きなのです。実は。
実はというほど、隠してもいませんし、気にかけてくれている人もいないと思いますが、好きなのです。と言いましても、そんなに見ているわけではありません。
土曜日は朝日新聞。
日曜日は読売新聞。
以上の2社の新聞を毎週買っているだけです。(以前は朝日も日曜日でしたね。)
単純に本が好きなのです。
もう少し正確に言いますと、本を買うのが好きなのです。
趣味は積読です。
読売新聞の書評される方に、村田沙也加さんがいらっしゃいます。コンビニ人間を書かれた方で、けっこう文章が好きです。
どこかのラジオで耳にしたのですが、人の顔の識別が苦手で、小学校時代は先生と生徒の違いもよくわからなかったとか。(間違っている情報でしたらすみません)その話を聴き、私も顔の識別が苦手で、福山雅治と宮崎あおいの顔の区別があまり違いが判らないくなっています。
話がそれましたが、村田さんの文章がなんとなく、言葉選びからテンポまで、好きなんです。
12月20日の読売新聞。崔実「pray human」の書評をされていました。
出だしの文章。
『沈黙』について、考えさせられる物語だった。本当に痛いとき、苦しいとき、心が壊されたとき、大抵、そこに言葉はない。一生、口を閉ざしたまま生きていく人も大勢いるだろう。
とありました。
まず句点の打ち方。一般的な文章よりも多いです。
感じたのは呼吸でした。
本当に痛いとき、
苦しいとき、
心が壊されたとき、
大抵、
そこに言葉はない。
声に出して読めばより実感するのですが、沈黙と痛みを根底に語るとき、その深さを句点を打つことで言葉にしたときの言いしれない重さを感じます。
絶妙な間を持たせた文章だと思います。
文章って、相性みたいなのがあるのかなと思います。(例えば、私は吉本ばななさんは合わないとおもいました。きれいすぎる印象でした。嫌いとかではありませんし、読んでいて面白いのですが。)
今回の書評も、pray humanが面白いというより、書評をしている文章が面白いと思いました。
『沈黙』いついて、考えさせられる物語だった。本当に痛いとき、苦しいとき、心が壊されたとき、大抵、そこに言葉はない。
と始まる文章でしたが、後半はこう綴られいました。
「沈黙」の中に眠っているのは、恐ろしい出来事だけではない。希望が沈黙していることもある。それを覚醒させるのは、沈黙に耳を傾ける誰かなのではないかと、この作品こそ、多くの無言の痛みにとってそういう存在になり得るのではないかと、切実な希望を感じる一冊だった。
言葉を失うときは、本当に痛いとき、苦しいときだったりと恐ろしい出来事だけではない。パンドラの箱のように希望が眠っているときもある。そんな言葉に、凪の中にただ一つゆらゆら光るクラゲのように希望を感じました。
それは、そっと耳を傾けてくれる他の存在がいてこそ語り得ることができる。自身の沈黙している希望を、傾聴してくれる存在がこの本であるのだなと受け取りました。
なんだか、祈りのような雰囲気を感じました。
実際に本書を読んだことはないのですが、村田さんのこの一連の表現や言葉が、じわーっと気持ちを染み渡らせていただきました。
という、些末な出来事でした。
それでも日々は続く。