徒然日々 ー 園芸とDIYと時々ソーシャルワーク ー

日々を暮らしていて、思ったことを書いていく、時間をつぶすにはぴったりだが、まったく為にならないブログ。

主体的に子育てをする夫って、なんだろう。

夫が、子どもの相手をすると、「積極的に育児に関わってていいわね〜」「主体的ですね〜(昔の旦那はゴニョゴニョなんとかと続く・・・)」という話を言われたり、聞きます。

主体的に、子育てをする、夫って、なんでしょう。

主体的に、トイレで用をたす、夫、ぐらいの感覚を感じました。

 

要は、生活をしていくのにあたり前にすることを、「主体的」と評価をされるってなんだろうと思ったわけです。

育児は、主体的も何もやらなければ子どもは生きていけません。それを夫が行うと主体的、といわれるということは、それだけ今まで子どもに関わっていなかったということ。個人が、とうことではなく、社会的にそういう価値観が強いということなんだと思います。

逆に、夫が当たり前に育児をする社会だったとしたら、男性が育児に関わることを「主体的にする」とは言われないでしょう。そんな社会で夫が育児をしなかったら「夫の育児離れ」とか揶揄されるでしょう。

夫は仕事、妻は家事育児が当たり前なら、夫が育児をしなくても何も言われないでしょう。それが夫の役割なのですから。

悲しいことに日本の男性の年収、30代で350万ぐらいで家族全員を養えるかといえば、けっこうカツカツです。夫だけが働いてやっていくというには限界があります。共働き当たり前。働くという活動が女性にでてくるのですから、当然女性の家事や育児という活動は男性に分けないと、負荷が器から溢れてしまいます。

社会の状況が変われば、社会の役割も変わってくるというのも自然なものだと思いました。そうしていかないと暮らしていけないです。

そんな中で、主体的な子育てを、といわれましても暮らしていくために当たり前のことをしているとう感覚です。なので、主体的にトイレで用をたすぐらいのことという感覚になりました。

トワイエ、イクメンや夫の子育てという言葉が世に出てくることが、移り変わりの期を表しているのでしょうね。

夫が、育児に関わる頻度が気になってとやかく言いたい、ということではなく、「主体的に子育てをする夫」という言葉で評されることから社会が蓄えている価値観が見えてきて面白いですね、という話です。

 

そして日々は続く。