徒然日々 ー 園芸とDIYと時々ソーシャルワーク ー

日々を暮らしていて、思ったことを書いていく、時間をつぶすにはぴったりだが、まったく為にならないブログ。

日々の疲れは何で癒されるのか

スマートフォンの充電をしても、月日が経ちますと満タンになってもすぐ消耗します。それと同じようなことが人間にも起きているような気がしています。

疲労をかかえると、消費が早くなります。それどころか、充電(睡眠)しても満タンにならなくなっているような気がいます。

 

こういう時、よく原因は何か?と探ったりしますが、ほんまにしんどいときは、何にしんどいかもわからないぐらいしんどいです。何かあったのか?どうしたのか?きっかけは?と聞いたとて、明確には出てこなかったりします。それがほんまに、しんどい、という状況なのかもしれません。

そういう時は、人間は電池を変えてはい復活!とはなりませんので、疲れをじわじわとデトックスする必要があるのではないかと思います。

こういうとき、ゆっくりすればよい、寝ればよい、という話にはなりますが、疲労やストレスの癒しは、ゆっくりすること自体がしんどくなることもあります。

多少体をつかってもいいので、自分の気持ちや体がきもちいなぁと感じることをする方がいいと思いました。

一番は度を越してしんどくなりすぎない程度の、気持ちの良い負荷を帯びな生きていきたいとおもうのでありますですます。

 

そして日々は続く。

今日も徒然なるままにアイスをいただきます

今日の一品はこれです。


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大人のショコラベリー。

衝撃的です。

開けた瞬間にチョコがばらっと開放され、机が彩られました。

うーん。フルーティ!と感じる舌心地。このアイスも2度美味しい。食べ続けると中のソースにたどり着き、そこから濃厚なラズベリーが弾けました。

 

こういうものも食べて終わる一日も乙なものです。

(ほぼほぼ毎日食べています)

 

そして日々は続く。

「なんで?」「どうして?」という言葉を「なんでいうの?」「どうしていうの?」と聞かれたら答えに窮する

子どもというものは、自分の意図しない言動を繰り返すのであります。危険や成果を言葉で伝えて諭しても、必ずしも伝わるとは限らず、空気を読むなんていうことは、ほとほと期待できなかったりします。子どもにとって空気は読むものではなく、吸うものです。

毎日、毎日、子どもと向き合っていますと、私からは理解を超える言動を行ってくれるわけで、ついつい「なんでするの!?」「どうしてするの?」と叱咤をしてしまいます。

ふと思いました。もし誰かが自分に対して「なんで『なんで』ってきくの?」と聞かれると、理由を答えられるかなと。理由を答えられたとしても、言うことを変えないと思います。ついつい、言ってしまうでしょう。

子どもになんでと理由と問いただして、言わせたとして、やめてほしい行動は変わりません。なんで?と聞く以外のアプローチが必要だとはわかってはいるのですが、余裕がなかったり、何回も繰り返されるとついついなんでと言ってしまいます。

お互いの徒労だけがたまります。

思うのですが、なんで?と言ってしまうのが悪いのではなう、ストレスのやり場を発散できる機会や時間がなかったり、困ったときに相談できる人がいなかったり、伝え方を練習したり見本を見せてくれたりする環境がないからだと思いました。

自分のやっていることの範疇は、自分がされてきたことの範疇でしかできなかったりします。

なので、自分を責めずに、少しずつ許しながら、余裕を見つけていきたいと思いました。

 

そして日々は続く。

 

全く根拠はないが「ま」が付く言葉の神秘さ

いつもありがとうございます。

今日も変わらず、ご飯を食べていました。

ふと思ったことを、ただただ、ただただつらつらと書いていこうと思います。

 

ごはんのことを何とよぶでしょうか?

ご飯をてべましたか?食べていません。

実は(白米ではなく)パンなら食べました。

 

といういうのはご飯論法です。
そういうとんちの利いた質問ではなく、率直になんと呼ぶのかということですが、夕食にしろ朝食にしろ、ランチにしろディナーにしろ、すべてご飯と称します。

しかし、若いころ。想像以上に若いころはご飯と呼びません。「まんま」と呼びます。

「まんま食べましょうねぇ~」など幼児に話しかけたりします。語源は知らないのですが、まんまと呼びます。

「ま」がつきます。偶然ですが、大体それをたべさせるのはママです。
ママがまんまを食べさせます。

勝手な印象なんですが、「ま」がつく言葉は生活の中で、命や生活にかかわる単語が多いような気がしました。なんの根拠もないのですが。ふと思ったのは、食べるのも「まんま」と呼びますし、地方によるのかもしれませんが、仏様を拝むときに「まんまんしとき」ということがあります。食と祈り。ふとそれに通じるものを感じ、言葉の不思議さを勝手に感じた次第でした。

意識を向ければ意識を向けただけ、共通事項が見つかるのかもしれませんが、日常で流れていく情報にあえて意識を受けることはそんなにないです。意図して向ける習慣をつけると新たな気づきもあるのかもしれません。私の場合99パーセントは世間からは無意味というものかもしれませんが、楽しいです。そして、1パーセントでも何か世のためになることが見つかれば、それはそれで素敵かと思いました

 

 

そして日々は続く。

日田はグルメの地なのか。

今日のお昼は焼きそばにしました。

日田天領の焼きそばでございます。

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焼きそば

こだわりのソースにシャキシャキもやしと麺が絡む!!

ですが、もやしは一ミリも使い混ぜませんでした。ソースの独り舞台です。理由はシンプル。もやしが手元になかったからです。

なのに、なのにどうして。結構おいしかったです。見た目通り濃いです。飲み込んだ後にもう一つピりっとくる辛さがやってきます。それが満腹中枢をより麻痺させてしまい、一気に食べてしまいました。

日田のグルメは毎年一月になにかを食べています。

住んでいない都市ではありますが、勝手にグルメの聖地と思いっています。

一度、行ってみたいものです。

 

そして日々は続く。

営業が上手な人に会うと営業されていない気になりました

最近、お客としてお店に伺うことが続きました。

うまいなぁ、と思う店員さんと、いまいちだなぁと思う店員。

いまいちだと感じさせてき売れる店員さんの共通点は、商品の良さを伝えてくれる店員さんでした。この商品はどんなに役に立ち、どんな性能があったり、どれほど価値があるかということを教えてくれます。

ちょっと置き換えて考えてみますと、いくらハサミの性能や価値を説明されても買う気にはならないです。

うまい店員さんは、いつ、どこで、何をしたいのかを聞いてくれます。

外で、枝を切るためのハサミを探しているときに、左用の最新のハサミを紹介されても冷めるばかりです。

つまり、商品の説明をする前に、こちらの話をしっかり聞いてくれる人。それがうまいなぁと思う営業マンです。

現状をしっかり聞いてくれ、欲求を明確にしてくれて、適切なものを紹介してくれる。これが当たり前のように思えて、意外と少ない、そう思いました。近所の電気屋さんでも同じです。うまいなぁと思う人はエアコン一つでも、まずは今どのようにしているのかを聞いて、どのようにしたいのかを尋ねてきます。

何気ないトークですが勉強になりました。

 

 

そして日々は続く。

全集中の呼吸は意外と理にかなっている?

全集中の呼吸が流行っていますね。この前、近所のローソンで全集中の呼吸と書かれたラムネが売られていました。

漫画で呼吸を扱うものは意外とあります。と言いましても、ほかはジョジョしか知りませんが。敵と戦うときに呼吸を整える。これは意外と理にかなっているなと思いました。

人は臨戦態勢に入りますと、アドレナリンが分泌され、脈拍が早くなり呼吸が浅くなります。いわゆる交感神経が働く状態です。この状態にありますと、体が活発に動きますが、冷静な判断が失われます。

物事を冷静に判断し、対処するには深く息を吸い込む必要があります。

鬼滅の刃しかり、ジョジョの奇妙な冒険しかり。呼吸を整えないと迫りくる敵に対処できません。この時に「集中しろ」「意識を向けろ」と考えても、気持ちは変化しません。変な話、気持ちをコントロールするために体を使うということが大切になってくると思います。

ヨガでも呼吸を使って、体の調和を整えていきます。

3月のライオンでも棋士が勝負するときに「深く息を吸う」という描写が出ていきます。漫画に限らずスポーツ選手や棋士は心を整えるために呼吸を整えるのです。

そう考えると、全集中の呼吸は、意外と理にかなった戦いの作法だなと思いました。

少し、私も呼吸をしてみたいと思います。

(いつもしていますが)

いつも自然にしていることを、意識して行おうと思ったらできないことがあります。

歩くときに意識して歩くと、うっかり右手と右足が同時に出ます。呼吸も、意識して行うと、いつもと違った違和感や感覚が生まれて、なんだか鼓動が聞こえてきます。

当たり前に無意識に行っていることを、意識してみるのも生活のだいご味かもしれませんね。

 

 

そして日々は続く。